2016.10.23  鎮守の森の秋祭り
我が家は外房の小さな町の高台にあります。 秋晴れのさわやかなある日、森の鎮守の秋祭りを楽しみました。

森の鎮守の秋祭り

 久しぶりに秋空の良い天気となり、気分よくお気に入りの里山散歩に出かけた。 高台にある我が家から、トトロの森に出てくるような小川沿いの小道を下り、10Kmほどがお気に入りの散歩コースである。

 トトロの森を出て、刈入れを終わった田んぼ道をしばらく歩くと、鎮守の森がある。 鎮守の取り付きにある鳥居の横に幟旗が立っていた。 今日は秋祭りがあるようだ。 鳥居をくぐり、50mほどで101段の急な石段があり、上り詰めるとそこに春日神社がある。 この町は戦後間もなくのころ、3つの村が合併しできた町なので、各地区に村の鎮守がある。 春日神社はそのような村の神社の一つだ。

 高齢化した町であるが、町の若い衆がほとんど集まったのではないかと思うほど境内には大勢の若者がいる。 そして今日の境内には神輿が置かれ、社殿からは祝詞が聞こえてきた。 社殿には祭りの世話役たちが控え、秋祭りに先立ち祝詞をあげ、神様に神輿に乗ってもらう儀式の最中である。

獅子舞の奉納

 30分ほどの儀式が終わると、マスクをした神主が厳かに神様を神輿に祀る。 今度は獅子舞の奉納が始まった。 神楽囃子に乗って舞う獅子舞は350年ほどの歴史があるそうだ。 ゆったりとした踊りは、横浜の中華街の獅子舞のような激しい動きはなく、いかにも 日本のリズムだ。

 獅子は踊りの途中から右手に鈴、左手に弊をもって舞うので、まさに巫女の舞と同じだ。 鉦、太鼓と横笛で奏でるリズムに乗って、しずしずと踊るが、こんなものをもって舞う獅子は初めて見た。 正に囃子にのって、豊作の感謝の踊りを神様に奉納しているのであろう。

鎮守の森を出た神輿はゆっくり町へと練り歩く

 境内の地面に茣蓙を敷いだけの舞台だが、舞台の周りで見ている人々も、踊る獅子も皆知り合いの秋祭りである。 獅子踊りにも伝統の所作があるのであろうが、しゃがんで見ている小さな子供たちの頭を撫でたりと余興もあり和気あいあいである。

 やがて、すべての儀式が終わり、お神酒をふるまわれたら、神輿はしずしずと町に出る。 木遣りのような歌を歌いながら、ゆっくりと神輿は進む。

 昔からある自分たちの村祭りだ。 秋祭りは今日と明日の二日。 村祭りを久しぶりに見て、秋を迎えたと実感した。

京都のある神社の秋祭り

 京都府にある歴史のある神社の宮司さんは私の学友です。 秋祭りや神社の歴史を教えてもらいました。

 秋祭りは五穀豊穣に対する素直な感謝の念を込めたお祭りで、集落一同が神社に集い、そして御輿が集落を巡行するもので、農耕民族ならではの習性であり、聖徳太子以来の日本人の「和」の精神でもあります。

秋祭りでの千灯明

 学友の神社では稲作に関わる祭典には、

  • 2月初午の稲荷神社の初午祭(はつうまさい)
  • 春分の日の祈年祭(きねんさい)
  • 8月1日の八朔祭(病害虫除け)
  • 9月の秋祭り
  • 10月の稲荷神社例大祭
  • 本殿秋季例大祭
  • 11月3日のお火焚き神事(虫除け)
  • 11月23日の新嘗祭(大嘗祭)

と最低、年に8回の祭典があるそうです。

 学友の神社で実施していない御田祭等々を含めれば確実に年に10回以上あるとの事です。 さすがに由緒正しい神社では神主さんも大忙しです。

神社の歴史

 神社が祭っている神道の根源は、神道が成立する以前から根付いた天然自然の恵に対する畏敬と感謝の念、万物に神が宿る自然崇拝の念が根源にあり、仏教やキリスト教などのような教祖はありません。

 明治以前には仏教と神道は混然としていて、日本人の心にお寺と神社が併存しているのは不思議なことではありません。 キリスト教とイスラム教が一人の心の中で併存し得ないのとは大きな違いです。 西欧の植民地支配の危機にさらされた明治政府が日本の体制を西欧並みに改革していく過程で、慶応4年(明治元年。1868年)の「神仏分離令」と、明治3年(1870年)の「大教宣布」により政令で仏教と神道が分離されて、神道は仏教、キリスト教と同じ宗教に位置付けられています。

 時代の大きな変革期・鎌倉時代、明治時代に仏教や神道で新たな宗派が多数誕生しています。

 仏教では浄土宗、日蓮宗、法華宗、臨済宗、曹洞宗、等々(全て鎌倉時代で、教祖の教えを尊崇する)。

 神道では吉田流、北白川流(鎌倉時代、教祖は不在で神様への神職の仕え方の差異)、天理教、金光教、黒住教、大本教、等々・・・(明治時代に、教祖の教えを尊崇)。

 神職の役割(位置付け)は、「神のみこともち」です。 天然自然物に宿る八百万の神様と、神様に祈願し感謝する人々の仲介役としての礼儀作法を身につけた存在が神職です。

私はやはり日本人だなと納得

 私は、神社で初詣をして、お寺で先祖の供養をするのに全く違和感がありませんでした。 キリスト教徒やイスラム教徒から見たら不思議なことでしょうが、混然とした仏教と神道の歴史から見ても私の心には日本人のDNAが流れているのだなと、学友から神社の歴史を教えてもらい納得した次第です。

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