今田元喜の冒険旅行

アメリカ・グランドキャニオン周遊(2007年の旅)

 アメリカのグランドキャニオンはコロラド川の浸食で作られた峡谷で、その雄大な風景を一度見てみたい観光地の一つである。 日本からも多くのツアーが組まれ、年間400万人も訪れる世界遺産。 そのグランドキャニオンのサウスリムから対岸のノースリムまで一周するオートバイの旅が企画されていた。 ロサンゼルスを出発し、グランドキャニオンを周遊し最後はラスベガスにいたる8日間の旅である。 私はオートバイに乗り、息子とカミさんは車で周る3人旅である。

初めての海外ツーリング

  国内のツーリングになれてくると次の未知の世界に目が向く。 インターネットで調べると日本人の海外ツーリングも盛んである。 どこをツーリング出来るのか、オートバイの調達はどうするか、宿はどうするか、と海外ツーリングの情報を集める中で次第に計画が煮詰まってきた。 初めての海外ツーリングの挑戦なので、日本からオートバイをもっていったり、宿の手配をするソロツーリングではなく、ツアー会社の企画するツーリングに参加することにした。 次はどこを走るかを決めなければならない。

 初めての海外ツーリングを考えた時はまだ現役の宮仕えである。 長期の休暇は望めず、がんばって7日が限度。 情報が多く、治安もよく交通事情もわかっているアメリカに絞り情報を収集。 日本の会社が企画するツアーもあるが企画数が少なくアメリカのツアー会社の企画に乗っかっている様である。 日本人の添乗員も加わりその結果、日本の会社のツアーはツアー代金が割高である。 それではと、アメリカのツアー会社に直接コンタクトしてみた。 西海岸のツアーの中に、グランドサークルツアーと題した14日のツアーがある。 コースは申し分ないが14日はやや長い。 このツアーは期間が長いと感じる人向けに前半と後半に分かれており半分だけの参加もできるようになっている。 これに的を絞りさらに調査。

ツーリングにカミさんと息子も同行

 カミさんと一緒に旅行してみたいが、カミさんは絶対にオートバイには乗らない。 子供のころ自転車で転んだトラウマで自転車に乗らない。 ましてやオートバイのタンデムライディングなど見向きもしない。 カミさんはオートバイには乗らないが、「車で一緒に参加できるか?」とツアー会社に問い合わせると、受け入れ可能との回答が来た。 カミさんは車で、私はオートバイで参加するつもりだが、カミさんが一人で車を運転するのは心もとない。 息子にこの旅行に参加し、車の運転とカミさんの用心棒をしてくれないか尋ねるとOKと。 しかもロサンゼルスまでの息子の旅費はマイレージが使えるので、自分で持つという。 ただし、「オートバイの後ろをついて回るのでは、面白くない。 自分の行きたいところを回りたい」と条件がついた。 ツアー会社にこの要望を問い合わせると、「車の手配などは客側でやり、宿舎と朝と夜の食事だけをツアー会社が手配するのであれば、これも可である。」と極めて顧客重視の回答。 したがって朝ホテルで一緒に食事を取り、夕方次のホテルでカミさん、息子と落ち合う道中となった。 頼もしくもしっかりした善き息子殿である。

ツーリングルート

ツーリングルート

  • 8月8日  ロサンゼルス空港内のホテルに集合。 夕食を兼ねたミーティングを終わり、1泊
  • 8月9日  朝食後、レンタル会社にバスで移動。 各種手続きを終えて、自分のオートバイをチェックし、試し運転後出発。 405号でラグーナビーチへ、そこから山越えの州道74号を経てパームスプリングスまで。 パームスプリング泊
  • 8月10日 パームスプリングを出発。 ジョシュアツリー国立公園で休憩。 その後砂漠地帯を通り、アンボイからルート66を通りラフリン(ラスベガスの80Km南の町)まで。 ラフリン泊
  • 8月11日 ラフリン発。 再びルート66をオートマン、キングマン、ハックベリー、トラックストン、ヤンパイと走る。 この道はルート66でも特に古い街道でおすすめの道。 最後はウイリアムからグランドキャニオンへ。 グランドキャニオン泊。
  • 8月12日 グランドキャニオン発。 キャメロンへ向け公園内を移動。 国道160号を通りカエンタ(モニュメントバレーのナバホネーションの町)まで。 カエンタ泊。
  • 8月13日 カエンタ発。 モニュメントバレーを走り、163号をメキシカンハットまで、そこから州道261号、95号を通りコロラド川を対岸に渡る。 ハンクスビレで南下をはじめ、ブライスキャニオンへ。 ブライスキャニオン泊。
  • 8月14日 ブライスキャニオン発。 15号でラスベガスへ。 到着後オートバイは返却。解散。
  • 8月15日 カミさん、息子と1日ドライブ旅行。 ラスベガス泊。

8月8日 ロサンゼルスに集合

 日本を出発し、昼にはロサンゼルスに着いた。 仕事の都合で別便で来た息子とはロサンゼルス空港で落ち合あった。 ツアーはロサンゼルス空港の目と鼻の先にあるツアー会社指定ホテルへのチェックインから始まる。  徒歩で20分、ホテルのシャトルバスで5分しかかからない。 午後3時から午後7時の間にチェックインするように米国流で万事能率的だ。 チェックインまでにやることがある。 それは、カミさんと息子が15日まで使う車を手配し、右側通行に慣れること。

ロサンゼルス レンタカー習熟中

 早速、空港にあるレンタカー会社へ行き、手続きをする。 レンタカーの担当者はとても商売熱心だ。 もう少し大きい車があるがどうかとか、スポーツカーはどうだとか、値段の高い車をしきりに勧めるが、アメリカの普通車は大きすぎるし、スポーツカーも興味なし。 予定のコンパクトカーを借りて、運転練習を兼ねロサンゼルスの町へ出かけた。 空港から町への高速は右折や左折、信号待ちなどが少ないので、車に慣れるにはもってこいである。 流れに乗りさえすれば良い。 高速をはずれ比較的交通量の少ない郊外の町中を一走りし、右折左折などに慣れてから空港のホテルに戻るとちょうどチェックインの時間。 無事にチェックインを済ませ、夜7時にはツアー参加者が全員集合してツアー会社のスタッフから翌日からのツアーの説明を受ける。 一通り自己紹介をするが初対面でみんなぎこちない。 そのあと息子と久しぶりの夕食を楽しんだ。 これからの1週間よろしく。

 参加者は、 デンマーク 3名、 英国 9名、 ドイツ 5名、 イタリア 4名、 日本 3名(私、カミさん、息子)の24名だ。 それにツアーガイドにアメリカ人2名、先導オートバイとバンで同行する。 タンデムで参加の夫婦も多いので、オートバイは15台である。

8月9日 ロサンゼルスからパームスプリングスへ

 ルート ロングビーチにあるレンタル会社をスタート。 市街地を抜け、73号線でサンクレメンテ方面へ南下。 途中、74号線でファレス山脈を越え、パームスプリングまで210マイルの行程。

 翌朝7時に朝食を済ませると、ツアー会社の用意したバスに乗り込みロサンゼルスにあるオフィスに向かう。 カミさんと息子は車で後からうまくついてきているようだ。 快晴で気温は高い。 30分ほどして、ロングビーチ付近にあるツアー会社についた。 この会社は全米でのオートバイのレンタルと、ツアーを実施している、最大手だけあって、事務所は大きなビルである。

事務手続き中

 早速事務所に行き、それぞれが書類を確認しサインを終えるとツーリングの用意だ。 ライディングギアーに着替えるが、お国柄が出る。 イギリス人はライディングギアはもとより、砂漠やデスバレーを走る予定なので、背中には走りながら水を飲めるように背負いタンクを担い、重装備の御仁もあるが、ジーンズが多い。 一方イタリア人たちはTシャツに半ズボン。 ヘルメットもお皿のような簡単なもの。 日差しの強い砂漠などを通るが大丈夫だろうか。 私は夏用のメッシュのゴアテックライディングギアにフルフェイスヘルメット。 オランダ人夫婦は厚手の長袖、長ズボン。 ライディングギアではないが、サングラスがよく似合っている。

 ずらりと並んだハーレーの中から自分のオートバイを見つけ、点検する。 スタッフから一通りの説明を受けた後、エンジンをかけて、道路に出て軽く走り、調子を見る。 クラッチは軽く、ブレーキも効くし、エンジンも調子が良い。

いざ出発

快晴の朝、グランドサークルの7日ツーリングに出発

 準備を終えると、10時過ぎにいざ出発。 陽気なイタリア人たちは気勢を上げながらの出発である。 オフィスを出るとまもなく高速(州道75号線)に乗りロングビーチを横目に南に向かう。 南カリフォルニアの天気はよい。 リーダーを先頭に一団となってゆっくりと走る。 一団はまもなく高速に乗り、オートバイに慣れるに従いスピードを上げサンクレメンテに向け南下。 一団のオートバイは順調に走り、高速道路は片道数車線もあり、流れに乗ると自分のスピードを感じなくなる。

フアレス山脈越え

 アメリカの西海岸はすぐ近くまで山並みが迫っている。 サンクレメンテの手前で高速を降り、左折するとすぐ州道74号となる。 カリフォルニア半島の付根はフアレス山脈だろうか、山が迫っておりこの山脈を横断する形で東に向かう。 山脈越えは片道1車線の細い舗装道である。 アメリカの道路と言えば平坦で広々とした真っ直ぐな道を想像するが、日本で例えると箱根の山を越える旧国道の山道を想像すれば良い。 しかしここはアメリカ。 周りは明るくて日本のようなうっそうとした木々に囲まれた山道ではない。 背の低いブッシュと、ところどころに少し背の高い木がある程度で丸い大きな岩が地肌から顔を出している乾いた山という印象が強い。 山道は適当なカーブがあり練習ドライブには最適である。 ツーリング初日はまずオートバイになれること、交通標識やその土地の運転マナーに慣れること、そして左側通行の国からの参加者には右側通行に慣れることを念頭においた適切なルート選択である。 このツアー会社は海外からのツアー参加にお勧めである。

サングラスが要る

 西海岸は明るい日差しが強くサングラスが良く似合う土地だ。 一山超えると景色は一変した。 かなり乾燥しており、昔見た西部劇の舞台と同じ風景だ。 草もほとんどない荒地で、背の高い木は見当たらない。 あるのは人工的に散水した街路樹や、芝生のある地域に限られる。 そして、目の前には乾いた風景の中に不似合いな湖があった。 エルシノア湖とあるが西海岸の為の人工の貯水湖である。

峠から見た砂漠の中にある人工湖エルシノア。 湖畔で遅い昼食をとった。

  その湖畔にあるレストランの屋根つきの屋外のテーブルでやや遅い昼食をとる。 このツアーはオートバイ使用料とホテルの宿泊費、朝食代はツアー代金に含まれ、その他の出費(ガソリン代や昼食代、夕食代、飲料代、公園入場料などの出費)はその都度各人が払う。 それぞれ好みの食べ物を注文するがここはアメリカ。 ホットドッグにコーラが多い。

 昼食をとりまたツーリング再開。 相変わらず強い日差しだ。 ヨーロッパのツーリングでは転倒時の身体保護のためライディングスーツ(革ジャン、皮パンツまたはゴアテックス製のウエアとプロテクタ)着用を求められるがここアメリカでは何事も大雑把、自己責任の国である。 Tシャツに短パンでもOK。 ヘルメットも河童のお皿のような日差し保護程度にしかならないものでもOKのようだ。 Tシャツ、短パン姿が幾人かいたが、彼らも含め多くのメンバーがサングラスだけは着用している。

 ちなみに私のツーリングスタイルはゴアテックスにフルフェイスのヘルメット(UVカットのスモークシールド)と完全武装である。

迷子になった

 西海岸から一つ目の山脈を越えた盆地の中をしばらく走り、州道74号線はもうひとつの山脈(サン・バーナディーノ国立森林公園)に取り掛かる。 この山を越えるとパームスプリングスだ。  高かった日差しがようやく傾きかけたころパームスプリングの町並みが見えてきた。 やがで信号もある市街地に入る。 信号のあるところで引っかかると一団がバラけ易い。 知っているルートであればバラけても自然にまた一団になることができるがこの一団にとってここは見知らぬ初めての土地。 ましてやコンボイを組んで1日目である。 案の定、信号待ちで止まった時、先頭を見失ったようだ。 前のオートバイを探しながら不安げに真っ直ぐ進み、後続の我々はそれを知らずに続く。 コンボイの半分ほどが町を突きぬけてしまった。 皆どうもおかしいと思いながらもしばらくそのまま走り続けるが、とっくに町の先の砂漠の真っ只中になった。 ついに先頭がストップし、やっと後続も止まる。

町を一歩出ると砂漠。 砂漠の中の風車群。

 周りは荒野で何百機もの風車がくるくる回っている。 先頭のライダーはしょんぼりしているが、これは起こりえること。 しょげなさんな。

 ここで多国籍軍はお国のカラーが出てまとまらない。 いつもにぎやかなイタリア組は真っ直ぐ来たので引き返せば良いと声を上げ今にも引き返そうという勢いだ。 一方慎重なイギリス組は「見知らぬ土地でばたばた動くと思わぬ事故が起きる」と主張し引き返すのに反対する。 どうするという顔で私を見つめるので、「思わぬ事態になったときにはなんでもないことで事故になりやすい。 まずリーダーに電話で迷子になったことを告げそれから引き返そう」と言い、おもむろにバッグから携帯を取り出して息子に電話してみた。 息子たちは既にホテルに到着し、リーダーたちも居るとのこと。 息子に「リーダーに話したいので携帯を渡してくれ」と頼み、こちらは英語の上手なイギリス人に、「リーダーに話せ」と携帯を渡す。 イギリス人はホテルまでの道がわからないのでこちらまで迎えに来いときりだした。 一方リーダーはもうホテルで休んでいるのか出てきたがらない。 簡単な道だから引き返せといっているようだ。 イギリスは慇懃に、それでも辛抱強く、こちらに来いとお国柄を発揮。 ついにアメリカが根負けし、迎えに来ることになった。 まだ日暮れ前であったが初日のハプニング。 少し遅れたが皆無事ホテルに着くことができた。

パームスプリングス

 パームスプリングスは、砂漠の中に作られたリゾートです。 有名なゴルフ場があることで日本にも知られていますが、周囲の乾燥した砂漠や山々でのハイキングや、乗馬、水泳などを楽しめるが、日本人のイメージしている美しい風景の温暖なリゾートとは趣が異なる。 ロサンゼルスから200Kmも離れていないので、避寒地に多くの退職者が集まり、高級リゾートとなっている。 日本からのゴルフツアーも企画されるゴルフリゾートと聞いていたのでどんな別天地かと期待していた。

ホテルから見える裏山には草木が全く無い。

 今日の宿舎はパームスプリングスのホテル。 砂漠の中と言うだけあってホテルの裏の山はほぼ禿山だがホテルにはたっぷりと緑がある。 どうも自分が想像していた自然の中の別天地とは違いここは砂漠の人工の温泉保養地という風情だ。 どこがよいのかわからないが天気が良いの間違いないから気温と日差しの強さを別にすればゴルフをするには良いだろう。

コンボイの裏方

 オートバイには荷物をあまり積めない。 海外旅行にはスーツケースが付き物である。 しかしオートバイの後ろにスーツケースを積んだ姿は情けないというより難しい。 では毎日宿泊地を変えるにはどうしたらよいか。 裏方が必要である。

予備のオートバイをけん引するバン

 ホテルを出発するときスーツケースを預かり次の宿泊先まで運ぶのが随行するバンだ。 このバンには牽引車が付いており予備のオートバイが載せてある。 予備のオートバイの出番がないのを期待するがどうなることだろう。

カミさんたちは一足先にパームスプリングスに

 ホテルでカミさんたちに今日の様子を聞いた。 ツーリングの始めは、まじめにオートバイの後ろをついてきたが、バンのスタッフから、「自分たちでホテルに行けるなら別行動でよいよ。」といわれ早速別行動。 ナビ装備車を借りており、目的地の住所もわかっているので不安はない。 別の道を通りずいぶん早くパームスプリングスに着いたので、町の航空博物館などを見て回ったそうである。 明日以降、いくつか見てきたい所に行けそうなので安心した。

8月10日 パームスプリングスからネバダ州ラフリンへ

 ルート パームスプリングの町を外れるとすぐ乾燥地帯。 62号線でジョシュアツリー国立公園へ。 ユタトレイル、アンボーイロードと旧道をアンボーイまで行き、アンボーイからはルート66を通り、モハーベ砂漠を経て、コロラド川を渡った対岸のネバダ州のラフリンまで、230マイルの行程。

ジョシュアツリー国立公園

 もともとこの地域は降雨が少なくその雨も10月から3月までと言われる。 8月は気候が安定しているのであろう。 ツーリングにもってこいの快晴である。 朝食を済ませリーダーの合図で出発する。 町を出るとまもなくUターンした風力発電サイト横を通る。 そこを過ぎると南北に真っ直ぐに伸びた道路の周りは何もない。

州道62号。

 ただただ真っ直ぐに道路が延びている。 ひたすら走り州道62号にのり、道路沿いのショッピングセンターでガソリンの補給と休憩。 各自自分のオートバイにガソリンを補給し、支払いを済ませる。 アメリカはカード社会。 もちろん現金での支払いもできるが、全員カードで支払いを済ませる。 一方、リーダーはショッピングセンターで段ボールいっぱいのペットボトルを買ってきた。 全員に2本ずつ渡しながら、「これから毎日ペットボトルを2本ずつ渡します。 休憩時には必ず飲むように。」と念を押している。 ここはやはり乾燥した砂漠地帯である。 休憩をすますとジョシュアツリー国立公園に向かう。

 この砂漠地帯だけに生えている風采の上がらぬ木がありその名はジョシュアツリー。 モハーヴェ砂漠一帯にだけにみられる植物だそうだ。 西部劇に出てくる砂漠の植物といえば、サボテンを期待していたが、カリフォルニアの砂漠には見られないそうである。 しかし、このジョシュアツリーも西部劇に出ているそうで、一応納得。 ジョシュアツリー国立公園は東京都の1.5倍もある広大な公園で、横断するように走る。

公園での休憩。 全員で記念撮影。

 2日目となるとそれぞれ個性のある人柄が見えてくる。 イギリスから来た60代と思われる御仁は相当の勉強家のようで、この地の気温などを調べてきたのだろうか? 背中に水タンクを背負い、チューブを口にくわえて運転しながら水を飲める装備を見せてくれた。 これからの暑い日差しの中でも給水は万全だ。 もう一人の英国人。 これはどうだと見せてくれたのが、ヘルメットにつけた扇風機。 オートバイで走っているときは役に立たないだろうが、都会の渋滞では活躍しそうだ。

アンボーイ

 ジョシュアツリー国立公園を抜けると一段と暑くなった。 モハーヴェ砂漠である。 ユタトレイル、アンボーイロードと駅馬車が走っていた旧街道をアンボーイまで行く。 道路は舗装されているが暑さと日差しが体を圧迫しているように感じ、尋常ではない恐怖を覚える。 走っているとバチバチと何か音がする。 同時に脛や胸に何か当たる感覚がある。 前方のオートバイが巻き上げた砂が風防やオートバイそして足に当たっているようだ。 砂漠といっても砂丘などはないが風にも飛ばない道路上にある小粒の石がタイヤに巻き上げられ飛んでいるようだ。 しばらく走り、疲れを感じた頃アンボーイというとても小さな街に出た。 砂漠の中の三叉路にできた幌馬車の昔から旅行者が休憩する町なのだろう。 ここでガソリンの補給をして昼食をとった。 砂漠の乾燥した空気に圧迫感を感じ、昼食をしながらも落ち着かない。 砂漠の昼間はこんな感覚になるのかと感心すると共に、一人で砂漠を横断する時は、水とガソリン、非常食をたっぷり持参しないと命の危険があると実感する。

モハーヴェ砂漠

 モハーヴェ砂漠という言葉には、18歳の時の忘れられない思い出がある。 日本でもテレビの普及が一回りして、どの家庭でもテレビを見れる時代であったが、まだ太平洋を横断したテレビの衛星中継は出来なかった。 18歳の年の11月23日に、初の日米衛星中継が行われアメリカからケネディー大統領のメッセージが送られる計画で、当日朝5時ごろからテレビの前でケネディーのメッセージを見ようと待っていた。 ところが、予定の時間になり画面が切り替わってもケネディーは出てこない。

 衛星中継基地付近の砂漠の景色と、レクイエムの音楽が静かに流れているだけである。 解説もアナウンサーの声もなく、砂漠の映像が流されているだけである。 朝7時になり、テレビニュースで初めてケネディー暗殺を知った。 暗殺は日本時間午前3時半のことだから、衛星中継の直前の出来事である。 ケネディーのメッセージビデオの代わりに、急遽モハーヴェ砂漠にある衛星中継基地の周りの風景に切り替えて送信したと後で知った。 大変な驚きとともに知ったのがこのモハーヴェ砂漠という名である。 アメリカ南西部のカリフォルニア州、ユタ州、ネバダ州、アリゾナ州にまたがる砂漠。 面積は35,000 km2 以上なので、九州の面積(36,750 km2)とほぼ同じ広さである。

母なる道 ルート66

 このツアーの目玉の一つがルート66を通ることである。 ジョン・スタインベックの小説「怒りの葡萄」の中でルート66は「母なる道」と呼ばれており、アメリカ人には特別の道路のようだ。 1920年代にシカゴからカリフォルニアまでの国道として作られ、人の移動、産業の発達に貢献したが今は廃線となってしまった。 その一部分が旧国道66号線(Historic Route 66)として国指定景観街道(National Scenic Byway)に指定されている。 私に身近なルート66は日本でも放送されたテレビドラマ「ルート66」だ。 この地域には極めて初期のルート66とモータリゼーション華やかな古きよき時代(1950年代)のルート66がそのまま残っておりツアーではその両方を通る。

アンボーイからウイリアムスまで2日間ルート66を走る。 赤線がルート66

 アンボーイからはルート66を走る。 1920年代に作られた当時のルート66は未舗装の道路だったが、その後舗装道路となった。 自然にできた道を整備したので、地形に合わせて、適当なカーブがあり、走りやすい。

ルート66

 しかし1980年代から舗装の更新はされていないようで、穴ぼここそないが割れ目にはやわらかいアスファルトを充填しただけである。 道路のでこぼこで「ゴトゴト」とタイヤが鳴るしカーブでは継ぎ目を充填したアスファルトに乗り、チョコッとスリップするのが如何にも実用に供していない歴史的な道路と感じさせる。 インデアンと騎兵隊の最後の戦いは1917年にアリゾナ州であったという。 明日はアリゾナ州に入るので、このような風景の中でインデアンは住んでいたのであろう。 つい100年ほど前まで幌馬車が走り、騎兵隊が馬にまたがり行進した平原や山並みが見える。 現在は車はほとんどが新しい高速道路を利用しているため、ルート66は車が少なく独占状態。

ネバダ州 ラフリン

 ルート66を快調に飛ばし夕刻ラフリンという町につく。 町の手前30kmにカリフォルニアとネバダの州境がある。 町はコロラド川に面しておりコロラド川の対岸はアリゾナ州だ。 カリフォルニア州とアリゾナ州にはさまれ、角のように突き出したネバダ州の最南端の町がラフリンである。 ネバダ州はギャンブルで観光客を集めている州だがその頂点は有名なラスベガス。 ではこのラフリンはというと同じくギャンブルで成り立った町。 お客はラスベガスまで車を飛ばすのはめんどくさいという南部に住んでいる住人たち。 ラフリンからラスベガスまでは180Kmほど離れているのでネバダ州の南端の町は結構にぎわっている。

 今日の宿は客室が1,900もある、ガチガチのカジノホテル。 ギャンブル一色のホテル内に場違いな格好をした集団がのこのこと入っても、圧倒的な人の波ですっかり埋もれてしまう。 ギャンブル好きの御仁には眠れない夜かもしれないが、我々はでっかい食堂で食事をとり明日に備えぐっすり就寝。

8月11日 ネバダ州ラフリンからグランドキャニオン入り口のウイリアムスへ

 ルート コロラド川を越え、アリゾナ州へ。 ここからルート66で最も古い時代からのルートをたどり、キングマン、ハックベリー、セリグマンと通り、ウイリアムスまで行く。 そこからグランドキャニオン入り口のタサヤンまで、240マイルの行程。

バリンジャークレータ

 朝食をとり出発の準備をするが、3日目になるとみんなの段取りも合ってきて手早く事が進む。 カミさんたちはここまでオートバイとほぼ同じルートを通ってきたが、今日は別行動。 息子の行きたかったバリンジャークレーターまで足を伸ばす予定だ。 我々は時代から取り残された、ルート66の町オートマンに立ち寄るが、カミさんたちはそこをバイパスし、キングマンへ直行する。 そこからルート66を走りグランドキャニオンの入り口ウイリアムスまで行く。 さらに足を延ばし、フラッグスタッフの先にあるバリンジャークレーターを見学してから、ウイリアムスまで戻り、我々とホテルで落ち合う予定。

息子です


バリンジャークレーターは約5万年前に地球に衝突した隕石によって形成されたクレーターであり、直径約1.2 - 1.5キロメートル、深さ約170メートルである。クレーターを取り囲む周壁が特徴的で、周囲の平原からの高さは30メートルである。 ウィキペディアより引用


取り残された町 オートマン

 ラフリンの街中のコロラド川にかかる橋を渡ればそこはアリゾナ州である。コロラド川沿いに30分ほど走り左に折れるとそこはオートマンロード。 トレーラートラックなどは通れない細い道。 これがルート66の初期の道路だそうだ。 目の前には山脈が見える。 アメリカ大陸の背骨のコロラド山脈である。 西へ西へと進んだ西部開拓を目指す家族たちが、プレーリーを渡りきり、悪戦苦闘して幌馬車を押し上げ、乗越えた山脈である。 ルート66も例外ではない。 ルート66は険しい山間を縫い、岩だらけの坂を上がり下がりする。 今走っているルート66は西部劇の時代からの道そのままである。 交通量の増大に従い、ルート66は随時拡幅や改良されたようだが、ここだけは、改良もされず最後まで残された。 州間高速道路40号がこのルートを迂回するように作られたおかげで、オートマンはそのまままま残された。

 オートマンロードは平地から次第に山あいにはいり、細い道が低い丘も避けるかのように右へ左へと曲がりながらゆっくり上る。 まさに馬が通り踏み固めた所が自然に道路になったのであろう。 舗装道路の下には無数の幌馬車が通った跡があるに違いない。

オートマンのルート66は馬車の時代からの街道

 オートマンはそのような山あいの取っ付きを少し上ったところにある時間が止まったような街である。 オートマンはかつて鉱山町であった。 細い街道の周囲の山は、当時てんで勝手に手堀りをしたのであろうか、あちこちに掘り返された後がそのままに崩れ、埋もれることなく残っている。 雨が少ないからであろう。 掘り返された跡はまさに荒くれ男たちの夢のの跡という様相。 ゴールドラッシュの時代、ここもにぎわい、それと共に喧嘩や銃撃騒動もあったに違いない。

オートマンの町の入り口に立つ酒場(右の木造2階建)

 今はひっそりと静まり返っているが、街の入り口には古い酒場がある。 2階は宿泊に使う部屋のように見える。 西部劇に出てくる宿泊設備のある酒場と同じ作りだ。 店の中を覗くと骨董が置いてあり、今は酒場ではなさそうだ。 昔、この店では鉱山で働いた男たちが酒を飲みに集まり、喧嘩の果てに前の道路にほおり出された酔っ払いも居るに違いないと想像をたくましくする。 この酒場の前で、静かに椅子に座った爺さんが居た。 声をかけてみた。 静かなところだがさびしくないかと問うと、若い時にミシシッピーのにぎやかな所にいたが、ここに引っ越してきた。 静かなここが気に入っており帰るつもりはないという。

オートマンの町並

 街の建物は古い時代そのままで、時間が止まったような街だ。 町の中央では観光客目当ての「真昼の決闘ショー」などが開かれるそうだ。 どこでもショーやお祭りで町おこしに懸命なところがイギリスとは違うところか。

キングマン、そして古きよき時代のルート66

キングマンの鉄道駅

 キングマンは昔からの東西交通の要衝で、州間高速道、国道と鉄道駅がある。 ルート66はその先輩格。 カミさんは筋金入りの鉄子。 この機会にとキングマンの駅までわざわざ行き、駅舎をパチリ。 またルート66に併走するサンタフェ鉄道(今は名称が変わったが通りが良いので古い名前で)のコンテナー貨物列車に感激し、100両まではコンテナー車両を数えたそうだ。

キングマンのルート66 左にコンテナー100両以上連結の列車が走っている。

 キングマンからのルート66はモータリゼーションたけなわの古きよき時代(1950年代)の道路である。 オートマンのルート66は馬車の時代の道路がそのまま残っていたが、他の殆どのルート66は交通量に応じ徐々に拡幅されている。 この区間は大型トレーラーが通れる道であるが、すでに基幹道路としての役目は終わり交通量は少ない。

ルート66の名物ガスステーションで記念撮影。 テレビの「ルート66」で使われたコルベットを背景に。

 ルート66ファンが必ず立ち寄るガソリンスタンドがこの区間にあり、我々もそこに行った。 このガソリンスタンドは当時のままの建物を使っている。 手動のガソリン給油機がそのまま残っており、古きよき時代の道具や機器を飾りすぎの感がする。 ガソリン販売では利益が見込めないのかお土産品販売に転身。 生き残るためには賢明な決断であり私もドネーションのつもりでみやげ物を少々買った。 店の前でツアーリーダーと証拠写真を1枚パチリ。

グランドキャニオン

 ルート66も終わりグランドキャニオンの入り口ウイリアムスに着く。 今日の宿舎はグランドキャニオン入り口の4Km手前にあるがそこを通り過ぎ早速サウスリムビジターセンターに向かう。

グランドキャニオン国立公園のゲート

 グランドキャニオンは広大な国立公園である。 公園に入るには入場料を払うか年間パスが必要だが、我々はジョシアツリーで年間パスを購入してあるのでそれを提示し中に入る グランドキャニオンの絶景を30分ほど堪能し、ホテルに戻り解散。 後はそれぞれホテルの部屋で休憩するなり、また絶景を眺めにいくなりして過ごす。 私は別行動のカミさんたちを部屋で待つ。 カミさんたちはのびのびとドライブを楽しんだようだ。 予定のバリンジャークレータをみた後、ホテルに戻る途中で見つけた機関車の展示場に立ち寄りすっかり遅くなっての再会である。 カミさんに負けず劣らず息子も鉄道好きなので仕方がない。

イタリア娘が日焼けしすぎでダウン

 イタリア人4名は2組のカップルでこのツアー参加者では若い30前後。 イタリア人は老若問わず人好きで明るく、話好きである。 この4人組も例外ではない。 初日から明るくはしゃいでいたが、皆Tシャツ姿である。 日焼け防止クリームをたっぷり塗っているのだろうがここは灼熱の砂漠地帯である。 ここではイタリア並の日焼け止めでは無理なのであろう。 1日目、2日目と顔や手がだんだん赤くなったおり、つい一人の女の子が3日目の昼ごろ元気がなくなった。 4人組はやや元気がない。 ホテルで十分休んで元気になってほしい。

8月12日 グランドキャニオンからカエンタへ

 ルート グランドキャニオンで朝日が昇るのを楽しんだ後、公園の東にあるデザートビュー展望台で休憩。 キャメロンまで出て、昼食をとり、その後インデアンの保留地のカエンタまで一気に走る。 カエンタ泊。 200マイルの行程。

グランドキャニオンの朝

 今朝はなんとしても早起きせねば。 グランドキャニオンに上る太陽を見ようとの魂胆です。 日の出は5時40分。 4時前にはごそごそと起き出し準備をする。 ホテルはまだ寝静まっており、カミさん、息子と3人で駐車場へ。 息子の運転で公園内のサウスリムビジターセンターへ出かけると、すでに相当の車が駐車している。 薄暗い中、太陽が見える絶壁の展望台まで歩き、太陽の昇るのをしばし待つ。

グランドキャニオンの日の出。


日が昇ると、暗かった対岸が太陽の光を受け薄紫から徐々に赤く、そして白く輝き始める。 太陽が昇りきるまで雄大な絶景の色の変化を堪能し、しばらくリムを散策してからホテルに戻った。


デザート・ビュー展望台

 グランドキャニオンには多くの展望台があり今朝出かけたのはサウスリムにある展望台。 リーダーの朝のブリーフィングではグランドキャニオンの上流側にあるデザートビューポイントとナバホレストランで休憩をとり、あとは一気にモニュメントバレーまでいくとの事。 モニュメントバレーまでは一本道なのでカミさんたちもオートバイと一緒に行くことにした。

 朝、ホテルを出発し、公園の中に入る。 サウスリムからイーストリムの一番東にあるデザートビューまで45Kmを走るが、公園内の道路で散歩客もあり、ゆっくりと走る。 1時間近くのツーリングの後デザート・ビュービジターセンタ前の駐車場に到着。 11時まで自由時間とのことで、皆それぞれのグループで散らばる。 息子は写真を撮ると言い、どこかにいってしまった。 カミさんと二人でデザートビューポイントへ。 グランドキャニオンもサウスリムから40Km以上上流となるとさすがに渓谷は浅くなり、対岸の壁も低く斜めの壁となり、朝にみたサウスリムからの光景に比べると、優しい表情に見える。

 一回りして気になっていたビジターセンター横のタワーに入る。 タワーは西部の物見砦を模したレンガで覆われた丸い25Mほどの高さのタワーで下は土産物屋兼展望台になっていた。 ぶらぶらと中に入り狭い階段を子供たちに混じって一番上にある上部展望台まで上る。 暑い。 見渡すと川の下流側は渓谷だが上流側は緑もある谷になっていた。 グランドキャニオンの最上流部にいることに気がついた。

調子の悪いオートバイが

 連なって走る空冷のハレーダビットソンが16台。 デザート・ビュー展望台を後にして背の低い潅木の道を走る。 イタリアの若い女の子もホテルで十分休んだようで昨日よりは元気があるようだ。 快調に走っていたが、やがて前を走るオートバイのスピードが少しずつ落ちて、先頭と離れてしまう。 エンジンの調子が悪いようだ。

 山歩きではリーダーがトップを行き、サブリーダーがしんがりを勤めこのふたりに挟んで初心者を前に歩くのが鉄則である。 オートバイのコンボイも同じ要領で走る。 今、真中ほどの位置のオートバイがずるずると遅くなった。 異常をリーダーに知らせ全体がストップ。 遅れていたオートバイはオーバーヒートなのかエンジンの出力が上がらないようだ。 しかし、渋滞の街中では空冷エンジンはオーバーヒートが起こりやすいが、ここは快調に走れる道路。 どうもオーバーヒートではなさそうである。 後方のバンでけん引していた予備のオートバイに乗り換えることとなった。 予備を使ってしまったので、あと3日間、さらに故障車が出ることがなければよいが。

インデアン(ナバホ)料理の昼食

 コンボイは再び前進。 グランドキャニオン国立公園を出るともうナバホ居留地である。 少し走りキャメロンという街で昼食。 町といってもぱらぱらと分散して建物がある街道筋にあるレストラン、モーテル、ナバホ民芸品と土産物の店が一体となった建物。 後から調べてみて驚いたが、ここは昔インデアンと白人が物々交換をしていた場所であった。 西部劇で時々出てくるあの交換所(トレーディングポスト)である。 右の写真は小コロラド川(コロラド川の支流)にかかる年代物の橋とその後ろに見えているのがこの取引所である。

小コロラド川にかかる古い橋とその向こうにキャメロントレーディングポスト(インデアン交換所)

 昔々西部にはインディアンと白人の物々交換の場所が各所にあった。 アメリカにある居留地の中でナバホ居留地は一番広く、その中にいまだにトーディングポストがいくつか存在している。 このレストランの名はずばりキャメロントレーディングポストと言う。 ナバホ居留地ではナバホ族以外は不動産を取得できない。 このレストランはナバホの物で従業員は全員ナバホ族であった。

ナバホ料理

 またとない機会なので昼食はナバホ料理のナバホ・タコというレストランお勧めのナバホ料理を食べた。 ヨーロッパからの参加者は全員ハンバーガーかステーキなどでインデアン料理を避けているが、海外旅行のときはその土地の料理を楽しむのが私流。 味は悪くはなかったが、食材がぱらぱらとこぼれる。 ナイフとフォークでは食べにくい。 インデアン流に手で食べるのが一番であった。

 全員の昼食が終わるまでに2時間近くかかった。 すべてにゆったりとしたナバホのペースで料理が運ばれるのだ。 早く料理が運ばれた人が食べ終わるころまだ料理が来ない人もいたり。 郷に入れば郷に従え。 皆不平は言わないが少し退屈気味で全員の食事が終わるのを待つ。 さすがに従業員に「早くしろ」などと怒鳴る客は一人も居ない。 皆大人たちである。 静かに会話しながら待つ。

 リーダーが食事の終わった人は散策をしたらとの一言で、食事を終わった人からそれぞれレストランの外に。 カミさんたちは、ここからホテルまで別行動すると先に出発した。

一路モニュメントバレーの町カエンタへ

 やや遅い昼下がり。 レストランの隣にあるガソリンスタンドで給油の後、一路カエンタへ。 赤茶けた背の低い草か木かわからない植物がぱらぱらと続く台地が続く。 道路沿いには電柱が延々と立っており道路が舗装されているのを除けばまさに西部劇の風景だ。

 ナバホ族に限らずインディアンは広い原野で狩猟をしていたが、不毛の居留地の押し込まれ、一時は農業を強制させられたそうだ。 このような乾いてやせた土地では農業も成り立つはずがない。 自然を相手に自由に生きて、きっとそれが幸せであったであろうインディアンの人たちが、否応なく近代社会の中に組み込まれ、不本意な生活をしているのは間違いない。

カエンタへ モニュメントバレーの風景が見えてきた。

 そのような風景が延々とカエンタの町まで続く。 今日の宿舎は国道160号と163号の交差点の横。 宿舎を過ぎ、モニュメントバレーまで一走り。 宿舎前の交差点を左折すると163号線である。 左折して163号線を35Km走るとモニュメントバレーの中心地、モニュメントバレートライバルパークについた。

 ビジターセンターでインディアンにかかわるさまざまな資料展示を見て外に出ると周りには映画でよく見るモニュメントバレーの景色がある。

ジョン・フォード・ビューポイント

カミさんたちは一足先に出発していたのでモニュメントバレーを見学する時間がたっぷりあったようで西部劇の大御所ジョン・フォード監督が好んで映画に使ったジョン・フォード・ビューポイントで写真をパチリ。

ジョンフォードビューポイントの先にはテーブルがあり、カミさんはそこまで歩き、記念写真をパチリ。 だが米粒みたいに遠いですね。


8月13日 モニュメントバレーからブライスキャニオンへ

 ルート カエンタからモニュメントバレー、メキシカンハットを経て、261号、95号と州道を走り、ハイトでコロラド川をわたる。 そのあと24号、12号とほとんど車の合わない州道を南下し、ブライス泊。 350マイルの行程。

「手が痛い。 オートバイのクラッチが重すぎる」とドイツ人が悲鳴

 朝、ドイツ人が「手が痛い。 オートバイのクラッチを見てくれ」と出がけに言い出した。 何事かと聞いていたら、クラッチが硬いようで、これまで我慢して運転してきたが、手が痛み力が入らなくなり、ギアチェンジが困難だと言う。

 リーダーが調子を見たが、簡単には直せないようだ。 初日のテストライドのときから硬かったそうだが、そのときに我慢せずに交換してもらえば楽しいツーリングになったのに、後の祭りである。 リーダーはどうしようもない(予備はすでに使っているし、調整には整備に工場に持っていく必要がある)し、残りはあと2日で前半コースが終わるので、ラスベガスまで何とか我慢してくれと。 気の毒だが仕方がない。

 ドイツからはタンデム1組、ソロ3人の計5名。 もう一人ツアー会社のバンの運転手がドイツ人。 ドイツ人とはあまり話す機会がなかったが、イタリア人とは違い物静か。 素朴な人柄の人たちのようで、話し上手とかにぎやかとかは縁遠く、日本人と同じような傾向がある。

デンマーク人女性ライダーは免許取得数か月で海外挑戦!

 デンマークから来た夫婦は、どちらも顔の整った白人で立ち居振る舞いは物静かでインテリに見える。 二人はタンデムライドではなくそれぞれハーレーを乗りこなすが、この奥さんがなかなかすごい。

 ご主人からこのツアーへの参加を相談されたとき、観光地をオートバイで回るのであれば、自分自身で運転したいと思い立ち、まずはオートバイの免許取得に挑戦。 めでたく免許を取得したのが数ヶ月前。 それからオランダで数ヶ月オートバイになれる練習をして、このツアーに参加したというからすごい。

デンマークからの女性は免許取得数か月でアメリカ遠征。

 しかもオートバイに乗る姿は堂々と様になっている。 白バイなど普通のオートバイはやや前傾した姿勢で乗るが、ハーレーダビットソンなどいわゆるアメリカンといわれるオートバイは、真っ直ぐな姿勢か、ややそっくり返ったような姿勢の方が様になって見える。 ご主人も奥さんもまさにそんな乗り方で乗る格好は他を抜きん出ている。 たいしたものだ。

モニュメントバレーからメキシカンハットへ

 朝カエンタの町を出発し我々はメキシカンハットへ向けて出発。 途中モニュメントバレーでは道路際で一時停止しモニュメントたちに別れの挨拶をして先に進む。 一方カミさんたちは直進し、さらに北に大回りしてアーチズ国立公園を回ってブライスキャニオンまで行く予定。 430マイルとかなりの距離があるので、カミさんたちは早朝に出発しわれわれとはまったく別行動。

モニュメントバレーに別れを告げしばらくして振り返るとこの景色。

 モニュメントバレーに別れを告げ、しばらく走って後ろを振り返るとモニュメントが見送ってくれる。 ここはモニュメントを眺めるビューポイントのようである。

メキシカンハットとナバホ国

 メキシカンハットといえばソンブレロを思い浮かべる。 西部劇でも良く出てくるメキシコ人のかぶる帽子だがこの章は帽子ではなく小さな町の話。

 カエンタを出て北に数時間進むとコロラド川の支流サンホアン川を渡る。 この川辺にメキシカンハットという小さな町がある。 広大な乾燥地帯に住むナバホ族にも水は必需品であり、川辺に住むのが自然である。 この街も昔からインディアンが部落を作っていたのであろう。 マッチや銃などインディアンが持っていなかったものと毛皮とを交換した物々交換所が昔ながらに建っている。 インディアンが迫害に近い扱いを受けた歴史を思うと心が痛むが、白人の扱いに反発して戦った多くの種族の中でナバホ族は白人との話し合いで自分たちの世界を守ろうとした最初の種族と言う。 この小さな町はナバホ族の人たちが静かに暮らしている片田舎の穏やかな町という印象を受けた。

 グランドキャニオンの端からこのサンホアン川までがナバホ居留地(ナバホ国とも言う)でその広さは71,000km2(北海道の83,000Km2より少し小さい)と実に広い。

 メキシカンハットまでは州間高速163号であったが、ここからは簡易舗装の州道261号を走る。

メサの未舗装の坂を鉄の馬が登る

 簡易舗装の道路の先には高さが100mほどの壁が前に立ちはだかっている。 モニュメントバレーの孤立した丘はビュートといわれ、テーブル状の台地はメサといわれる。 我々はメサの麓にやってきた。 浸食でできた崖は左右に延々と続いている。 その真下は大きな岩と崩れ落ちた土砂がそのまま堆積し手はまったく加えられていない。 今でも浸食は進行している。 登り道の取っ付きで一旦停止。 前を見るとそこまであった簡易舗装もその先は無い。 自然の状態のままで、わだちのあとも残ったダートの道だ。

メサに登るダート道。 半年後に撮られたGoogle Mapのストリートビューを借用

 「このメサの上まで未舗装道路であり、注意して進むように」とリーダーが声をかける。 メサの壁は崩れるに任せてあり、そこを強引に上る州道は今でも崩れてきた土砂を除くだけの自然の道だ。 この州道は昔からの道路のようだ。 馬と人だけのカウボーイであれば難なく超えるこの壁も、幌馬車でこの平原を渡ってきた開拓者たちに壁を迂回する道は無い。 何が何でも馬車を押し上げないと財産すべてを失うので、必死で押し上げたのだろうと想像が働く。

 アメリカでハーレーダビットソンの愛称は「鉄の馬」。 我々は現代のカウボーイである。 ソロで乗っている男たちは、鉄の馬にまたがり、メサの上まで難なく坂を登っていく。 しかし、イタリアからのカップルたち(タンデムライドの組)やデンマークの女性のように舗装道路しか走った経験の無いライダーはパニックに近い。 大きな声で悲鳴を上げながら、必死である。 止まったり、こらえきれずにオートバイを倒したりと大騒ぎ。 リーダーが汗をかきながら手伝っているようだ。 坂の上で待つことしばし。 何とか全員上ってきた。

メサの上からの展望


フリー走行! コロラド川を渡る

 全員坂を上りきり、一休み。 水を飲んだり坂道での興奮を思い出したりと今の出来事を振り返りかえる。 アメリカの道は全体に単調な道である。 舗装されたカーブの少ない広い道を、単調な景色の中走り続けるのも経験といえばまた面白いものだが数日続くと飽きる。 時にはオートバイの上で意識がぼんやりしてくる事もある。 日本では峠や岬、高原と景色は美しくめまぐるしく変わるし、真直ぐな道が数時間も続くということも無く、飽きることは無い。 改めて日本はいいところだと思う。

 十分に休憩し元気を取り戻した一行はまた順調に車を進める。 しばらくして国道95号線に出た。 この150Km先にガソリンスタンドがあるのでそこまでフリー走行して良いとの一言。 一団となったツーリングはリーダーとサブリーダーの間に挟まれたカウボーイに先導される牛のごとくに感じる。 迷子の牛がいると出るとカウボーイが見つけ出し元に戻し、何かあると全体が停止するように個人がばらばらに走ることは無く、いい加減窮屈である。 このツアーもそこを一工夫。 アメリカの刺激の少ない道に未舗装道路というアクセントを付け、またフリー走行という一時牛を野放しにして自由に草を食わせるがごときの変化をつける。 心憎い演出である。

150Km フリー走行。 全く交通量のない一本道。

 ソロで参加の者はこれ幸いと自分の好きな速さで走る。 もちろん私も同じ。 今までゆっくり走ることも早く走ることもできずただ前に付いていくだけのドライブから自分のペースで走る開放感はソロライディングのものだ。 開放された気持ちでスピードを上げる。 しばらく走ると川に出た。

上流のコロラド川。 グランドキャニオンのようなそそり立つ岸壁はない。

 グランドキャニオンを流れるコロラド川の上流である。 さすがにこれまで渡った2本の支流とは違い本流は大きいには大きいが思ったより川幅は狭く水量もイメージとは違っている。 雪解期では無いからであろう。

ブライスキャニオン 宿舎を勝手に変えるリーダー

 今日は相当の距離を走った。 ブライスキャニオンの入り口にあるのが今夜の宿舎。 ホテルの看板が見え駐車場に入るかと思いきや真直ぐに進む。 20Kmほどはなれたモーテルに着く。 リーダーはここが今日の宿舎だという。 ホテルではなく州道12号線沿いのこじんまりしたモーテルである。 会社から事前にもらった書類にあるホテルとは違うのでリーダーに問うと、今朝変更したと言う。

 「なんで勝手に変えるのだ。 何も聞いていない。 カミさんと息子は予定のホテルに向かっているはずだ。 カミさんたちはどこに泊まれというのだ?」と詰問するとちょっとあわてたようで、カミさんたちに連絡できるかという。 携帯に電話してみると応答がありカミさんたちはブライスキャニオンに向かって移動中であった。 リーダーに「なぜ変えたのだ。 なぜそれを息子たちに知らせないのだ。」と問うが答えない。 「息子たちはここの住所を言っても原っぱの一軒家ではナビが正確にここを示すとは限らない。 どうしてくれる。」 と再度詰問するとリーダーは「予定のホテルまで向かってくれ。 迎えにいく。」と言い出した。 まあーそれでも良いが「ここはどの辺りだ? 地図を見せろ。」と聞くとモーテルの場所を示す。 12号線が国道89号線に突き当たるところから1Kmほど戻った場所でわかりやすい。 息子にこのことを言ったらナビの地図で大体の場所がわかったようだ。 自力でここに来るといってくれた。

夕闇迫るモーテル入り口で息子たちの到着を待つ。

 リーダーにとりあえずここまで自力で来させるが、迷ったときはホテルまで戻るので迎えにいってくれと申し入れリーダーも了承。 それから1時間ほどたって息子の運転する車が無事モーテルに来た。

 このアメリカ人リーダーはあまり教養のない男でオートバイの運転はしっかりしているもののまじめな仕事をするとは言いがたい。 想像するに、予定のホテルをキャンセルし、安いモーテルに振り替えることによって差額を懐にしようという魂胆と見た。 またモーテルからもリベートをせしめたのではないかと邪推する。 リーダーとバンの運転手が金の配分でもめていたようなので案外この想像は正しいだろう。

 ツアー会社はいずれもベストウエスタンのホテルを選んでいるのでモーテルには泊まったことがない。 自動車で旅行するアメリカ人のほとんどが利用するというモーテルで泊まるのも一興と割り切る。

モーテルの敷地は舗装されておらず、室内の設備も素朴なもの。 個人営業のようだがきれいで悪くはない。 軒先に鳥のえさを入れたフィーダーという代物がそこここにぶら下がっており朝日が昇るとハチドリが朝食をとっていた。

アーチーズ国立公園

 アーチーズ国立公園はユタ州にあり、さまざまな形状の砂岩でできたアーチが多数ある。 遠方にあり日本からはなかなか行くことができないが息子はカエンタからアーチズ国立公園を経てブライスキャニオンまで700Kmを走破する為、朝早起きし出発した。 アーチーズでの観光もありブライスキャニオンに到着したのはすっかり日が暮れてからであったが無事走破した。 お疲れ様。

アーチーズ国立公園。


8月14日 ブライスキャニオンからラスベガスへ

 ルート 茶色の奇岩のブライスキャニオン国立公園、渓谷美のザイオン国立公園を通り、州間高速15号で一路ラスベガスへ。 ラスベガス泊。 280マイルの行程。

ブライスキャニオン国立公園

無数の赤い土柱が広がるブライスキャニオン国立公園


 モーテルで朝食をとり、昨日走った道路を20kmほど戻ると、ブライスキャニオン国立公園につく。 ブライスキャニオンは、キャニオン(峡谷)というより、赤い地層が侵食されて、いわゆる土柱と言われる景観が広がっている。 高台からみた景観は見事なものだ。

ザイオン国立公園

 ブライスキャニオンを出て次のザイオン国立公園まで行く。 ここはロッキー山脈の中であり、ブライスキャニオンからザイオンまでは大きく山なみを迂回する格好で進み、最後に山越えの山道を通る。 細道なのでリーダーはゆっくりゆっくりと走るが、ちょっと退屈である。 細い道幅ぎりぎりの大型キャンピングカーが前にいる。 アメリカではキャンピングカーで旅行をを楽しむ人たちが大勢いる。 この山道はブライスキャニオン とザイオンを結ぶ唯一の道路だが、岩をくりぬいたトンネルの中には車一台分の幅しかないトンネルもある。 こんな道でもキャンピングカーが結構走っているが、トレーラー式のキャンピングカーを引っ張る車は大変だ。 岩肌むき出しの細いトンネルでは、トンネルの壁に当たらないように最徐行を強いられている。

ザイオン国立公園は、両方から山が迫った谷筋の緑豊かな風景。 巨岩を除くと日本の風景に近い。


 あまりにも退屈だ。 四国の山の中を走った私としては、もう少し早いスピードで走ってほしい。 少しストレスがたまったので、前のオートバイとたっぷり離れてから自分のペースで走ってやろうとちょっといたずら心が起こり一旦停止。 後ろのバンも止まって待ってくれている。 10分ほど停まっていたが、バンが痺れを切らす前に走り出しすことにした。 残念ながら、すぐ皆に追いついてしまった。 また同じことをやるほど子供ではないので、その後は辛抱して一緒にとろとろと走る。

ザイオン国立公園は巨岩でできた山があちこちに。 谷から見上げる風景は圧巻。


 横を流れる小川が少し大きくなった。 平地が近い。 ビジターセンターで一服する。 ザイオンは大きな岩山や岩壁が有名な公園だが、これまでの公園に比べ木が多く緑も深い公園だ。 公園内は600平方キロメートルと広大で、トレッキングコースや、ロッククライミングなどで遊べ、電気自動車で見学もできるようになっている。 我々は、ビジターセンターで小休止ののち最後の目的地ラスベガスまで一気に走る。

ツアーも終わりへ

 ザイオン国立公園を出て1時間も走るとロッキー山脈地帯をぬけ、ついに乾いた平原に変わった。 15号線を走り、やがてラスベガスの町に入った。 一行は、ツアー会社のオフィスまで一直線。 私の乗ったオートバイは故障もなく走ることが出来た。 最後の点検を受け、返却するとオートバイのツアー参加が終わった。 マイクロバスで一路今日の宿舎へ。

ラスベガス市内に到着。


ツアー最後の夜

 ツアーの前半が終わった。 ラスベガスに2泊してツアーの後半(ラスベガス→デスバレー→サンフランシスコ→モンタレー→サンタマリア→ロサンゼルスと西海岸を通る。)が始まる。 ツアー参加者の約半数は後半のツアーにも参加するが、残りの半数は今日で皆とお別れだ。 ツアーの最後は打ち上げで盛り上がるものだが、ツアーはまだ続くので、全員がひとつのテーブルで楽しく食事することもなく流れ解散となった。

 我が家はギャンブルには全く興味がない。 従って、ラスベガスを訪れたのは初めてである。 ラスベガスの町がギャンブルでぎらぎらと輝いているが、別世界の事で、全く興奮しない。 ラスベガスで営業しているホテルはギャンブル業が本業でホテル業はそれに付属した仕事のようだ。 我々が泊まるホテルも例外ではなかった。 ホテルの正面玄関を入ると、そこは静かなロビーではなく、ギャンブルマシーンがいっぱい。 客は皆夢中で機械に向かったりルーレットを囲んだりしている。

ラスベガスの夜景


 ホテルの受付はそのギャンブル場を横切った奥にある。 宿泊客は否応なしにギャンブルの雰囲気にさらされる。 ギャンブル好きにはたまらない雰囲気なのだろう。 レイアウトからしてそうだが、ホテルでの楽しみである食事にしても、ラスベガスのホテルでは期待してはいけない。 ギャンブルの途中、気もそぞろに急いで食事を取る客が多いのであろうか、ホテルは食事を重要視していないように思える。 食事はバイキングのみ。 最後の夜の食事のみツアー費用に含まれており、前半参加者はこの夜の食費はお仕着せでこのホテルで夕食を食べる。 おいしい食事とは程遠い安上がりのバイキングで、宿泊だけのホテル客には不満の残る仕組みだ。

 我々はこのホテルにもう一泊するように手配していたが、明日の食事はホテルの外の別のレストランに行くことにしよう。

8月15日 ラスベガスの休日

 今日はラスベガスの休日。 ツアーが遅れた場合の予備日としていて、今夜も同じホテルに泊まる。 スケジュール通りにツアーが進んだので、今日は1日予定がない。 ギャンブルの本場であるから、スロットマシーンにかじりついてもよし、ドライブに出かけてもよし。

 ルーレットやスロットマシーンのある1階で一攫千金のチャンスを狙うのもよいが、カミさん、息子と相談し、やはり郊外にドライブに出かけることにした。

ロサンゼルスへの航空券手配

 ホテルで朝食をとり、飛行場へ行く。 その目的は翌日乗るロサンゼルスまでの航空券を購入するため。 普通海外旅行では日本発から日本着までの航空券は旅行前にすべて手配するのが普通だが、昔ニューヨーク、シカゴ間の飛行機に乗った時の記憶が鮮烈だった。

1975年ごろ、米国出張をしたが、その時、米国に行ってから予定していない仕事が入り、急遽ニューヨークからシカゴへ行くことになった。 この時まだ30歳前後で初めての海外出張だった。 急な予定変更で航空券など持たずに駐在員と二人で飛行場に向かった。 どこの航空会社の何時の飛行機に搭乗するかも知らず、タクシーで飛行場に向かうことになり、駐在員に「本当に飛行機に乗れるの? 大丈夫?」と聞くと、「大丈夫だよ。 新幹線の切符を買うのと同じだから。」との答え。

 飛行場につくと、シカゴ行きの各社のフライトスケジュールを見て、駐在員は、これから切符を買い、あまり待たされずに搭乗できる飛行機を選び、発券カウンターで航空券を買うとすぐ、チェックイン、待つ時間もなく搭乗してシカゴへ向かった。 現在の荷物検査に比べ、当時の荷物検査はあるようでないものであった。 まるで東京駅につくと、最も早く出発する新幹線の切符を買い、すぐ新幹線に乗るのと同じであった。 『ほおお! アメリカの国内線飛行機に乗るのは日本で新幹線に乗るのと同じなのだ。』が当時持った印象であった。


 この印象があり、ラスベガスからロサンゼルスまでの航空券は今日買うことにしていた。 ロサンゼルスまで、3名分の航空券を手にし、明日大変な目に合うのを知る由もなく、今日のドライブに出かけた。

ラスベガスの休日 フバーダム

 さて、航空券の購入を済ませ、どこかアメリカらしいところにドライブしようとラスベガスを訪れる観光客に人気のアメリカを代表するフーバーダムへ行く。

ラスベガスの休日 フーバーダムへのドライブ


 コロラド川に建設されたフーバーダムは、1931年に着工、1936年に竣工した古いダムだが、ダムの貯水量は450億トンで日本のすべてのダムの貯水量を合計した250億トンに比べ、およそ2倍というすさまじい大きさのダムである。 建設当時は世界最大の水力発電能力を誇っていた。 1936年は第2次世界大戦の始まる前であり、潤沢な電気エネルギーを手にしたアメリカは、粗鋼生産も1940年で世界の43%を占めており、まさに世界の工場として君臨し、またその後世界の警察として君臨した背景となっている。 その舞台がこのフーバーダムといえる。

ラスベガスの休日 フーバーダムの発電機


 ダムには建設工事の写真が展示されていた。 現場で削岩機を使っているのは白人たちである。 当時は機械化が進んでいない時代で過酷な肉体労働だったろうが人海戦術でわずか5年で完成させたアメリカの体力の大きさに驚くと共にモータリゼーションで物質文明を謳歌し始める1950年代に入るまではアメリカという国の建設作業は白人肉体労働者が担っていたのだと感慨を深くした。

フーバーダムのジャンボリグ(Image Source: Wikimedia)


 翻って日本では高度成長のころまで働くことに誇りと自信を持ち、肉体労働も厭わなかったが、物質的に豊かになって肉体労働を嫌う若者が増えているのはアメリカ同様に時代の流れかと少々さびしい気になる。

ラスベガスの休日 シルクドソレイユ

 ラスベガスに戻ると息子から思いもかけぬプレゼントがあった。 ラスベガスはカジノと共にショービジネスの盛んな所で、さまざまなショーが見られる。 日本でも観劇などしたことがなく、休日の過ごし方が無不器用な父である。 ラスベガスでもせいぜいドライブをするぐらいだろうと息子は考えたのであろう。 日本を発つ前に息子から来たメールに入っていたのがシルクドソレイユの切符。 いつもの様に、何の相談せずにショーの手配をしてくれた。 うまい夕食を食べ、ショーを見に行く。 中央前よりの上等な指定席に座る。 周りにはアメリカらしくポップコーンとビールを持った客が多い。 早速私もポップコーンとLLサイズの紙コップに入ったビールを買いショーを楽しむ。 アクロバットを駆使した物語風のショーだが、とてもきれいに仕上がっており十分に堪能した一夜であった。 息子よ、ありがとう。

8月16日 帰国へ

 日本へ帰る時が来た。 事故にも会わず、大きなトラブルもなく息子と3人で楽しい旅が出来た。 朝食を済ませるともうやることがない。 昼過ぎの飛行機に乗るにはかなり早い時間だがホテルをチェックアウトし、空港での搭乗手続きまで順調に済ませた。 空港は全米からギャンブル目的でラスベガスに来た客たちだろうか、とにかく大勢の人でごった返している。 出発まで3時間ぐらいあるのでまだ急ぐ必要はない。

ラスベガス空港 とんでもないファーストクラスに遭遇

 荷物検査場の長蛇の列に並んで20分ぐらいでスタッフの前まで来た。 航空券を見せると「はい。 あなたたちはファーストクラスに並んで。」と言う。

 「え! 私の航空券はエコノミーだが?」と聞き返すも向こうの列に並べと繰り返す。 まー時間はたっぷりあるし、ファーストクラスとは何だろうと軽い気持ちで指示された列の後ろに並びなおす。

 列は遅々として進まない。 1時間以上待ってやっと一番前になった。 検査場に入って驚いた。 全身のX線検査と手荷物の徹底的な検査である。 漸く事態を飲み込めた。 国内線はニューヨークで発生した9.11事件以降国際線と同じかそれ以上に手荷物検査を徹底して実施しており、もはや昔の新幹線に乗る感覚ではなかった。

 アメリカはテロリストの攻撃目標となっており国内線も国際線も厳しい荷物検査をする。 テロを行う3ヶ月も6ヶ月も前に航空券を買うテロリストは少ないと考えたのか、あるいはテロリストは足がつかないようにテロ実行の直前に航空券を買うと考えたのかは知らないが、航空券を直前に買った客の中にテロリストがいる可能性が高いので一番厳しい検査を実施していたのだ。 それがスタッフの言う茶目っ気たっぷりの「ファーストクラス」であった。

 私は昨日航空券を買ったので、航空券には短期日で搭乗する記号が印刷されていたようでスタッフはそれを見て我々を一番厳しい検査のゲートにより分けたのであった。

 導入期には、プライバシーまで裸にしてしまうと非難されていた全身X線検査を受けて、手荷物の検査が終わるのを待っていると、向こうから大きな声で「おーい ヘルメットを持ち込んだ者はいるか? お前のオートバイは何だ?」と問う声がした。 私はスーツケースに入らないヘルメットを手荷物としていたので、こちらも大きな声で「ハーレー・ダビットソン!」と答えると向こうから「ベリー・グッド」と返ってきた。 厳しい検査で気が立っている周りの客から笑い声がした。

 嬉しくもないファーストクラスの扱いを受けたが、早めに飛行場に来ていたのが幸いして、ようやく待合室に着いたのが出発の30分前であった。 最後にとんだハプニングがあったがロスアンゼルス経由で無事帰国した。

 初めての家族旅行であったが、思い出深い旅行となった。 次はどこに行こうか。  終