今田元喜の冒険旅行

ポートディクソン 町歩き

 5年ぶりにマレーシアに来ました。 2010年から15年まで毎年マレー半島中部高原のキャメロンハイランドに出かけていましたが、その時以来です。 ポートディクソンはクアラルンプールの南100Kmほどの距離で、マラッカへの街道のちょうど中間にあるリゾートの港町です。

ポートディクソンの歴史

 ポートディクソンという町の名前には諸説あるようです。 英国の海峡植民地時代(19世紀末)にディクソンという担当役人がひなびた村に港を作った、あるいは同時代、半島植民地を統括していたディクソン卿が戦略的に港を作ったとも言われます。 いずれもディクソンという人物が作った港というのが町の名前の由来のようです。 ここではポートディクソン市議会(Port Dikson Municipal Council)の公式サイトの説明を紹介します。

 Port Dickson Municipal Council Official Portalより引用
ポートディクソンという町の名前は、19世紀終わりに海峡地域植民地に赴任したディクソン卿(Sir John Frederick Dickson)に由来しています。 町ができる前この地域は小さな湾を抱えていたため、地元のマレー人からはタンジュン(岬の意)と呼ばれていました。一方地元の中国人やインド人は、この近くの島で木炭を作り近隣地域に供給していたので、アラン(木炭の意)と呼んでいました。
アランの炭産業が大きくなり、またタンジュンも急速に町に成長してきたので、ディクソン卿はタンジュン地域を、英国役人や英国植民の保養地域として整備するだけでなく、戦略的な地域と位置づけ、港湾の開発、整備を始めました。
港湾の開発により、インドと中国の間のスパイス、お茶や絹の貿易でイギリスは大きな利益を上げることができるようになってきました。 マラッカ海峡が海上交易路の中間の戦略的な位置にあることから、インドと中国の旺盛な貿易にはマラッカ海峡が潜在的にも実際上もきわめて重要となったのです。
この新しい港の効果をさらに高めるために、タンジュンとスンガイウジョン(現スレンバン)を結ぶ39Kmのレールの敷設計画が1891年に提案されました。 貨物船から荷揚げした香辛料、米やタピオカ等の貨物を港からスンガイウジョンまで列車で運ぶ計画です。
さらに、スンガイウジョンの鉱山から産出された錫の輸出を増やすのに鉄道と港湾は大きな役割を果たすことが期待されました。 鉄道建設を促進するため、英国ははるばるインドから多くの労働者を動員しました。 確固たる努力を続け、ついに鉄道線路は完成しました。 ディクソン卿(半島植民地長官)によって運行開始が宣言され、鉄道の運用が始まったのです。
鉄道線路の正式な開通に伴い、英国はタンジュンをポートディクソンと命名し、官報で公表しました。 それ以降、ポートディクソンの名前はこの地域だけでなく、国際的にも知られるようになったのです。
十分な水深を持つ港であったので、開港以来、ポートディクソンは素晴らしい成功を収めました。 1893年にはその年だけで、シンガポールとポートクランから来たおよそ600隻の船がポートディクソンに碇泊し、貨物を荷揚げしました。 その荷物は鉄道でスンガイウジョンに輸送されたのです。 活発な港湾荷役と、ポートディクソン内外からの貨物の集積、輸送でポートディクソンは急速に開発され、1984年には税関と出入国管理事務所がポートディクソンに設立されました。
この港の活況に伴い、海岸沿いの空地の開発を進めながら町中も整備が進み、木造家屋は撤去され、およそ45棟のレンガ積みの建屋に置き換わり、メインストリートができました。


ポートディクソンの一日

 ポートディクソンは7時に日が昇り、日没も7時です。 赤道に近いのでこの時間はあまり変化しません。 マレーシアの太陽は水平線に顔を出したと思ったら、まっすぐ上に昇ります。 ホテルの部屋は東向きで、明るくなったと思ったらすぐ朝日が差し込んで来ます。 朝日とともに起床です。

 朝食はマレー食が中心ですが中華風と洋風もあるビュッフェです。 朝食を終え部屋に戻り、今日の過ごし方を決めます。 大抵は午前中は外出し、昼食を済ませてホテルに戻り、午後は休憩。 夕方にまた外出して夕食を済ませホテルに戻るのが日課です。

町の散歩 昔の栄華の面影のあるメインストリート

 ポートディクソンの町をゆっくりと散歩しました。 ホテルは古い町並みと港のすぐ隣のウオーターフロントと呼ばれるれるリゾート地区に建っています。 ウオーターフロントの商店街を覗きながら歩くと20分程で港に着きます。  19世紀、20世紀前半まで貿易船でにぎわっていたであろう港も今はその面影がありません。 小さな港で漁船が碇泊しているだけです。 港の脇には税関、入出国管理事務所であった建物が残り、港の広場の反対側にはかつては活気があったであろう、風格のあるレンガつくりの商館が静かに建っていました。 港からのメインストリートは健在で300mほど続き、その向こうには時計台のあるロータリーがいかにも英国植民地時代を思い起こさせます。

繁栄をもたらした鉄道は廃線だがレールが残っていた!

 はじめ線路を探そうという気持ちではなく、ポートディクソンに来て数日後町を散策していた時、偶然道路の横に使われくなって久しい線路を見つけました。 鉄道線路は廃線となり、ひっそりと町中に残っていました。 その時は廃線がポートディクソンという町の名の由来であるとは知りませんでした。 数日後、なんとなくGoogle地図を見ていたら、なんとポートディクソンの町中に細い筋が書かれていました。 どうもその筋が廃線かもしれないと気が付いたのです。 さっそく翌日線路をたどってみると、メインストリートの裏をとおり港まで廃線が伸びていました。 港の廃駅舎は草に埋もれています。 上の写真はプラットホームにある駅名標です。

ウォーターフロント

 ホテルは海岸の旧市街寄りの端にあります。 そこから500mほどの海岸沿いにウォーターフロントという名称で観光客相手のレストランや小さなホテルが並んでいます。 その陸側にはスーパーマーケットやローカルの食堂が並んでおり、ここは地元の客でにぎわっています。 また、ホテル横の道路が木曜日から日曜日までの夕方から深夜まで歩行者天国となり、屋台も出ていました。 夕涼みを兼ねた地元民たちで夜遅くまでにぎわい、うるさいことうるさいこと。

タカの渡り タンジュン・ツアン( ラチャド灯台 )

 ラチャド灯台はポートディクソンから20Km南のタンジュン・ツアン国立森林公園にあります。 ラチャド灯台はタカの渡りの観測地で、日本からもバードウォッチングに来る人たちがいます。 ハチクマの渡りがピークの3月のはじめ、毎年マレーシア自然協会がここで観察会( Raptor Watch Week)を開いています。 2月中旬はハチクマの渡りを見るにはやや早い時期ですが、タクシーで行ってきました。 タンジュン・ツアン国立公園は入場料1リンギット。 公園の岬の頂上にはラチャド灯台があり、海抜120m程。 さっそく灯台まで登りました。 灯台の敷地には入れませんが、外を一回り。 朝は快晴でしたが、昼に天気が下り坂。 急いで麓におり、公園入口で空を見上げるとハチクマが5~6羽クルクルと回わっています。 高度を上げると消えていきました。 もうハチクマの渡りが始まっていたようです。

昼食と夕食

 旅の楽しみはなんといっても食事です。 ホテルは朝食だけの提供なので、昼食、夕食はホテルから徒歩で行けるところでの食事が大半。 観光客向けのレストランでは二人で200リンギット、ローカルの食堂では20リンギット程と非常に幅があります。 マレー風、中華風、インド風の料理が多く毎日かわるがわる食べました。 時にはアラブ料理、ピザなども。  港からロータリーまでが古いメインストリートです。 そのロータリーの一角に在るローカルレストランの風景です。 和食はありませんが、マレー、中華、インド、洋食を食べられます。

カレーパンの王様

 ポートディクソンの名物にカレーパンがあります。 15Kmほど離れた町にあるのでタクシーで出かけました。 コタ・ルクットという中華系の人たちの多い地区のレストランの名物料理で、マレーシア中から食べに来ています。 何しろそのサイズが大きく、直径が25㎝程のボール状のパンの中にカレーが入っています。 パンを上手に切ると花が咲いたようになり、真ん中にマトンカレーが入っていました。 昼食に二人では食べきれませんでした。

タクシードライバー

 ビーチを散歩したり、廃線路を先まで行ったり、丘の上の住宅地を探検したりと毎日町中を歩いていました。 度々町のバス・タクシーセンターを横切るので、そこで休憩中のタクシードライバーとは顔なじみとなりました。 クアラルンプール市内ではメーター制のタクシーも走っていますが、マレーシアのタクシーはほとんどがメーターなしです。 料金はドライバーと客の交渉で決まります。 クアラルンプール国際空港からポートディクソンに来た時、175リンギットでした。 ポートディクソンで空港までの料金を聞いたら、当初150リンギットと言っていました。 顔なじみになってから聞いてみると100リンギットです。 当初の150リンギットは観光客向けの料金で100リンギットは地元民向けの料金ではないかと思っています。 タクシードライバーは大半がまじめで素直な人たちです。

 楽しいマレーシアの休暇でした。